ボディビル
─患者は長生きで医者は短命である─

井口　昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

　紹介状を持たない患者がクリニックへ来るようになった．
　近くで開業していた内科の医師が60歳代で急に亡くなったのだ．患者たちには医師が次第に弱っていく様子がわかっていたらしい．「だんだんに弱っていく先生が心配だった」と言っていた．優しい患者たちである．
　急であったために患者をほかの医者へ紹介することができなかったらしい．自分が死ぬとは思っていなかったのかもしれない．患者は「先生のことが心配で，医者を変えることなど先生が死ぬまで考えもしなかった」そうだ.
　紹介状がなかったのでお薬手帳から病気を類推した．来院した患者の全員が，亡くなった先生より年上であった．70歳を超えた患者がほとんどで80歳以上の人が数名であった．その中の１人に85歳のSさんがいる．Sさんは月曜日午後が初診の患者であった．特別な病気がある訳ではなかったが時折検査をしてもらうために亡くなった先生の所へ通院していたと言っていた．85歳にして，何の病気にも罹っていない人は珍しいが，医者へ通うのが好きだと言った．
　わがクリニックでは採血した血液を検査会社に送るが，極めて異常の値が出たときは緊急のFAXが届く．月曜日の午後に採血したSさんのCKの値が4,000であるという結果が火曜日の朝に届いた．私はCKの値をみて心筋梗塞が心配になった．
　高齢者の心筋梗塞では無痛性のことがある．昨日心電図を撮らなかったことを後悔した．
　Sさんに連絡して来院してもらった．何ら症状がないのに呼び出されたSさんは走るようにして来院して心電図を撮ったが正常であった.
　彼は近くの大学の運動教室へ通うのが趣味で昨日の採血したときはボディビルをやってきた後であったことがわかった．ボディビルによる筋肉由来のCK上昇であったのだ．彼は85歳にして毎週ボディビルに励んでいるらしい．患者は元気で長く生きるが，医者の命は短くてはかない．