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老年科医のひとりごと 第55回

ただ年が多いだけ

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 パソコンを使い始めた頃は文章を書き直すたびに上書きをして「別名で保存」することはなかった.
 文章は書き直せば必ず良くなると思っていたからである.あるときからパソコンの文章が書き直すたびに悪くなっていくことに気がついた.
 私の皮膚が再生されるたびに劣化しているように….
 私の大学で年に1回集団で健康診断をやっている.健診業者が来て手際よく1,000人以上の教職員の検診をする.私も毎年受けていたが,ある年の採血時に中年の看護師が私の皮膚を見て「ひどいね,こんな皮膚見たことないわ.ちょっと触れば出血しそう」と言った.私が医者であることを知らないから発した言葉ではあったが,相手が医者でなくても看護師が言う言葉ではなかった.
 私は「患者はそうやって傷ついていく」ことを知ったが黙っていた.ひどいことを言う看護師がいるものだと,その年は特別であろうと思ってやり過ごしたが,次の年も同じような感想を別の看護師に言われた.
 私の皮膚に若かりし頃のつややかさは残っていない.常に上書きされてきた皮膚があるときから劣化が始まっていたのだ.
 今年は集団健診を受けるのは止めて勤め先のクリニックで健康診断を受けた.優しい看護師が応対してくれて傷つくことはないだろうと思ったからだ.
 視力は両眼ともに裸眼で0.8であった.寝ながら毎晩テレビを見ているワリには悪くない.聴力も心ただ年が多いだけ(W320)電図も問題はなかった.胸部写真にはC-Vポートが映っていた.7年前に食道癌の化学療法のために植え込んだものが「別名で保存」されているのだ.
 私は検査をしてくれた看護師たちを前にして自分で総括をした.
 「目はいいし,耳もいいし」そして「顔もいいし」と言った.そこまでは全員顔を上げて「勝手になさいよ」と明るい顔をしていてくれていたが,「ただ年が多いだけだね」と言うと,「何と言って慰めたらいいかわからないわ」という顔になって全員下を向いてしまった.

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