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老年科医のひとりごと 第53回

胃潰瘍

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 今年から後期高齢者の仲間に入ったH先生は日程をこなす準備に余念がない.
 若い頃は何事をするにも一夜漬けだったが,この頃は早くから用意周到である.
 約束事が実行できなくなる「未履行恐怖症」は多くの老人にみられる.何でも早くから準備するようになる症候群である.準備したことを忘れてしまうことも多い.
 義務は加齢とともに減っていくが,ホワイトデイは残された行事のひとつである.
 先生のもらうチョコの数は年々減ってきてはいるが,漸減傾向が底を打ったようである.毎年ほぼ15個である.先生の自尊心をくすぐってくれる優しい叔母さんたちの善意であるが,先生は「自分の人気は根強い」と勘違いしている.
 先生は毎年チョコレートをもらう前にデパートに電話をかけて準備を済ませている.
 昨年還暦を迎えたY先生はH先生の後輩である.
 ホワイトデイのために準備した高価なハンカチを持ってY先生の部屋をノックした.
 Y先生はこれ見よがしのデパートの袋を見て慌てた.「私,今年は送らなかったんですけど」と言った.
 Y先生はチョコの名簿からH先生を削除していたのであった.
 「オシトネジタイをしようかと思いまして」と言い訳をした.「オシトネジタイってなんのこと?」,「あまりお側に行くことをやめようということですよ」
胃潰瘍(W300) それでもH先生が怪訝な表情をしているのを見て,「お殿様との同衾を辞退するということですよ」
 H先生は「オシトネなんかしてもらったことねーけどな?」と思った.
 両手で顔を覆って涙を拭きながら「それでもボクは先生を好きだから,これをもらってください」と言って高価なハンカチの入った袋を無理矢理渡した.
 H先生は若いころから数々の名言を残しているが,その中のひとつに「肉体的な不倫は子供ができるが,精神的な不倫は胃潰瘍ができる」というものがある.
 H先生に胃潰瘍ができないか心配である.

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