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老年科医のひとりごと 第34回

夫からテレビを取り上げるな

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 定年退職した男を夫にもつ妻の不満は,1:夫が毎日家の中にいること,2:夫に毎日昼食を食べさせなければならないこと,3:夫が毎日テレビばかり見ていること,である.
 テレビを見ることは,怠惰の象徴で,勤勉な妻たちの嫌うところである.彼女たちは子供たちには決めた時間だけテレビを見せて,できるだけテレビから遠ざけて育ててきた.
 私はテレビ嫌いではなかったが,テレビを見るのは好きですか?と聞かれたら「ほとんど見ないですね」と応えるのが教養のある証であると思って生きてきた.
 それが変わったのは入院してからだ.6年前に食道がんで延べ3カ月の長期入院を余儀なくされた.私の病状は深刻で病院のベッドの上で世間からの疎外感を味わっていた.私と外界を繋ぐのは看護師とテレビであった.
 がんの化学療法を受けたのだが,化学療法の副作用には全身倦怠感,食欲不振,吐き気などのほかに中枢神経系に少なからぬ打撃を与える作用があるようで,思考は堂々巡りをした.
 脳の底には床下を流れる川のように鬱の濁流がとうとうと流れていた.私をかろうじて鬱の濁流へ落ちるのを防いでくれたのはテレビであった.
 私が大学病院で医者として入院患者の回診をしていた頃の経験では,鬱状態にある患者はテレビも見ない.病室で患者がテレビを見ていると安心したものだ.
夫からテレビを取り上げるな(W280) 私も患者となって入院した当初,余命の短さに驚愕していた頃はテレビを見る気にもならなかった.しかし,しばらくは死なないことがわかると徐々にテレビ漬けになっていった.
 テレビを見なかったら深い鬱状態に陥っていただろうと思う.
 退職後の夫たちは家という病室で妻という看護師に養われている.
 彼らからテレビを取り上げたらたちまち鬱状態になるだろう.

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