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老年科医のひとりごと 第33回

お盆後鬱

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 62歳のSさんが私のクリニックへ来て「体がだるくて,食欲もない.首や肩がこってしょうがない」と訴えていた.
 今は8月の終わりである.お盆は過ぎたのに夏の暑さはそのままで秋風にはまだ早く,赤とんぼはまだ飛ばない.
 この時期になると軽い糖尿病のSさんに鬱症状が出る.
 彼は山形の田舎の農家の長男である.お盆になると生まれ故郷である実家へ帰る.実家から戻ってくると毎年決まって鬱症状に悩まされる.
 今が過去と未来の接点であるとは思えずに,永遠に時間が止まってしまった気分になる.そして嫌なことばかりが思い出される.思い出したくない記憶は消せないインクで書かれているようで,忘れていた記憶が蘇る.不快な記憶は相互参照のネットワークにより他の不快な記憶を呼び覚ます.
 感情の閾値が下がり,普段は気にならない周囲の言動に傷つきやすくなる.涙もろくなり,悲しい気分になる.私はこの症状を「お盆後鬱」と名づけている.
 この時期の気候の特殊性が症状を誘発する要因であるが,主な原因は実家へ帰ったことである.田舎の長男が陥る症状である.別名「長男の憂鬱」ともいう.
お盆後鬱挿絵(W280) 幼い頃から「家を継ぐ」ことをマインドコントロールされて来た人に出現する.
 そして家を継ぐことを先延ばしにしてきて,ついに実行しそうもない人に発症する.
 お盆に実家へ行って,帰り際に年老いた母親が寂しそうに手を振っている姿が脳裏から離れない人は重症になる.マザーコンプレックスの変形でもある.
 実家の両親が不仲の場合は症状が長続きする.
 同じ症状に悩む成人は,現代の日本に大量に存在するのだが,お互いに秘密にしていて話し合うことはない.

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