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老年科医のひとりごと 第23回

ウサギの一生

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 それはまだ戦後の間もないときで貧しい生活が永遠に続くであろうと思われていた頃だった.季節の移ろいはおだやかで季節の真ん中では静止画像の中にいるような信州の田舎だった.
 どういういきさつで飼うことになったのか忘れてしまったが,私はウサギを飼っていた.小学校へ入ったばかりだった.
 春にはクローバーや蓮華草を取ってきてウサギに運んだ.
 ウサギは赤い目をして,長く伸びた耳をもっていた.柔らかな真っ白い毛に触れると優しい心になった.
 ウサギはお風呂にも入らないのに綺麗な毛並みであった.その頃は人間も毎日お風呂に入るという習慣はなかった.
 夏にはハコベを,秋には畑に取り残されたキュウリやナスを食べさせた.
 田舎でも戦争のもたらした不幸はあちこちにあった.母は戦争未亡人となり再婚していた.私の実父は戦争で死んでいた.しかし私はそのときの父が自分の父親であると思っていた.私は村人たちの優しい嘘に守られて育っていたのだった.
ウサギの一生(W250) 冬になるとウサギに食べさせるものはジャガイモばかりになった.
 雪の降り続く日には物置小屋にあったウサギ小屋はひどく遠い所になった.ウサギは南天の赤い実のような心細い目をして私を待っていた.遊び疲れてジャガイモを何日も与えることを忘れてしまったことがあった.
 ある日ウサギは凍えて死んでいた.

 それから月日が経ち,私が大人になって,アメリカにいるときに母が治らぬ病に罹った.息子が海を渡って好き勝手なことをしている間に,母はキュウリやナスを作りながら末期の胃がんを養っていたのだった.
 私はニューヨークの研究室にいたのだが,私の人生の中で最も悲しいときだった.
 研究室の窓から外を眺めると雪が降っていた.私はウサギのことを思い出していた.

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