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老年科医のひとりごと 第20回

衣替え

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 今は10月の中旬である.
 夏の名残が消えて秋へ向かう季節だ.
 耳のそばを蚊が力なく飛んでいた.部屋の中に迷い込んだ蚊には夏の勢いはなく刺される心配はなさそうであった.向かいの川の土手のコスモスも色が褪せてきている.
 衣替えの時期になった.
 そういえばと思い返せば食道がんがみつかって以来私は衣替えをしていない.
 洋服ダンスには昨年の冬服がクリーニングに出されずに夏を越えて吊るされている.この4年間,ここまで何とか生きてはきたがいつ死んでも不思議はなかった.
 私の人生は長くて5年であると思っていた.4年前に食道がんを発症しているが,そのときの5年生存率は10%であった.私の人生の行く手には明確な壁がみえていた.行く手に命を遮る壁があることを意識せざるを得なかった.
 秋には来年の春の桜は見ることができるだろうかと思い,春には真っ赤な紅葉にお目にかかることはないだろうと思っていた.
 夏には次の年の冬の,冬には次の年の夏の見込みが立たなかった.
 人は涯のない涯に向かって生きているから希望が生まれるのだ.衣替えの図(W300)
 私は衣替えをする気分にならなかった.
 発症から4年が経過して5年目に入った.今から2週間前に検査をした.
 私に食道がんの再発の気配はなかった.
 私はあきらめていた社会へ復帰できそうな勇気が湧いてきた.
 パソコンのキーを叩きながら右手の甲をみると先ほどの蚊がしがみついていた.左手で押しつぶすと真っ赤な血が手背を染めた.知らぬ間に私の血液を吸っていたようだ.弱々しく見えた蚊には血を吸う生命力が残っていたのだ.私の体はあちこちがかゆくなった.
 私は衣替えをしようと思いたった.
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