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ISBN 978-4-89801--
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老年科医のひとりごと 第17回

桜吹雪

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 桜が終わる頃,名古屋駅は混んでいた.新幹線を下りてタクシーに乗った.抱えていた鞄を下して「高速に乗って有松のインターで降りて」と言った.運転手は何かを食べながら後ろを振り返って「どこですか?」と聞いた.私は同じことを繰り返したが「どこ?」と聞き返してきた.どうやら耳が遠いらしい.大きな声で繰り返すと「わかりました」と大きな声で言った.
 タクシーが動き出しても口の動きは止まらなかった.何かを食べているのかと思っていたがよく見るとその動きは不随意運動であった.
 タクシーは信号の手前で止まった.肩越しに記録用紙に記帳している手が小刻みに震えているのが見えた.
 難聴で不随意運動の運転手のタクシーに乗ってしまったようだった.
 私は咄嗟にタクシーを乗り換えようと思ったが,私は老年科の医者だ.相手が高齢であるからといって拒否してはならない,と気がついて座り直した.
 信号待ちで車が混んでいた.運転手は腰を浮かして前を伺い,何かぶつぶつつぶやきながら急に3車線の右端に出た.右折車線を走って信号の手前で止まっている車の最前列を横切って左折車線の先頭に車を止めた.
 高速道路の入口では口をもぐもぐしながら震える手で料金を払った.
 道路に出ると,パトカーが速度制限を呼び掛けた看板を掲げて走っていた.その横を猛スピードで追い抜いた.
 メーターを見れば100kmをオーバーしていた.ここは高速道路といっても60kmが速度制限だ桜吹雪(W260)ぜ.右に左にスピードを落とさず車を追い越し,もぐもぐしながら自在に走り抜けた.
 私は老人性振戦を抱えた暴走老人の運転するタクシーに乗ってしまったようだった.命の危険を感じていた.
 左手に病院が見えた.数年前に私はあそこの病院に入院していた.一度は死ぬ覚悟をしたが生き延びた.せっかく生き延びたのに何という運命のいたずらだ.暴走老人タクシーの交通事故で死ぬのは無念であった.
 30分後に無事に自宅に着くと桜が吹雪になって玄関を舞っていた.

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