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老年科医のひとりごと 第15回

金持ちの患者

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

  3月に入ると大学は春休みである.学生のいない大学は患者のいない病院のようなものだ.
  教官の中には長期休暇を利用して外国へ出かけている者もいる.大学に人影はなく静かで暗い.
 構内の西の片隅だけが少しだけ賑やかで雑駁な雰囲気を漂わせている場所がある.周辺住民が集まってくるクリニックである.
 私はクリニックでの外来診療があるので休むことはできない.その日の外来に85歳のSさんが来た.社長であった現役のときに十分にお金を貯めたらしい.今は世界中をクルーズで回るのがお仕事である.
 船から下りると私の診察室へ顔を出す.「先生は歩けっていいますけどね,船から下りて1日5,000歩は歩けんですよ」と言った.
 糖尿病で軽い心不全がある.船に乗っているときは揺れに任せて歩くのだそうだ.船を下りた地上では歩かなくなるので足がむくむという.
 私は「金がなくなったらどうするのだろう」と心配になるのだが,そのような機会は彼には永遠に訪れそうもない.
 その彼に深刻な事態が襲いかかったことがあった.昨年の夏に歩行障害が出現したのだ.整形外科の専門病院で脊柱管狭窄症と診断された.
 手術が必要であるが,年齢と体力を考慮すると手術ができないといわれた.日本で手術ができないのならアメリカで手術を受けようと思った.費用は4,000万円.
 渡米しようとした矢先に病院の看護師が言った.「手術しなくてよかったね.手術して寝たきりになった人が多いんですよ」彼はその話を聞くと,何故かすっきりと歩けるようになったそうだ.今では金持ち患者(W260)杖を横に抱えて診察室に入ってくる.
 診察が終わると「先生,週に何回外来やってるの?」と私に聞いた.「2回」と答えると「それじゃ暇でしょうがないわな」と言った.
 私は暇でも外国へ行けない.
 診察室を出がけにSさんの携帯が鳴った.「証券会社なんだよ.うるさくてしょうがないわ」と言いながら診察室を出て行った.

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