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ISBN 978-4-89801--
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老年科医のひとりごと 第45回

妻の仕返し

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 Hさんは65歳である.
 健康診断で空腹時血糖値が高いと言われた.私のクリニックで75 gブドウ糖負荷試験をやってみると境界型糖尿病であることがわかった.
 「糖尿病ですか?!」と引きつった顔になった.「心配しなくても大丈夫ですよ.まだ予備軍ですから」と伝えても怯えていた.「足を切断するんですか?」,「すぐにはそういうことにはならない」と説明すると「いずれはそうなるんですか?!」,「気をつければそういうことにはならない」と説得しても固い表情は変わらなかった.
 Hさんが帰宅して妻に告げると,妻は健康に関するテレビ番組を全部見るようになった.趣味の集まりである仲間からの情報や,新聞広告,インターネットの情報なども漁るようになった.
 そして彼女のネットワーク網に引っかかるすべての情報がHさんに降りかかるようになった.
 糖尿病はたちまち軽快して3カ月で正常値になった.
 私は「検査は半年に一度でいい」とHさんに伝えたのだが「女房にしつこく迫られて」2カ月ごとに来院するようになった.
 平凡であった妻の人生の「初めての生きがい」になってしまったようだった.
 酢やトマトを食べさせられているうちはHさんも了解可能であったが,生きがいが次第にエスカレートしていくと怖さを覚えるようにさえなった.
妻の仕返し(W230) この頃では「白いご飯を食べたことがない」し,Amazonで手に入れた「あやしい黒い液体」を飲まされたりするようになった.
 妻から「積年の仕返しをされている」ような気分になる今日この頃である.
 妻が彼に課した運動療法は毎日1万歩である.「センセイ,えらいぜ,この暑いのに1万歩は」と嘆く.
 妻のチェックは厳しい.
 彼は薬局で一番感受性の高い万歩計を買ってきた.そしていすに座っても腰を振るようになった.

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